シリーズ35/学園も戦時体制一色に 

昭和15年(1940)、は神武天皇が即位して2600年になるという神話に基づき、国家を挙げて、紀元二千六百年祝賀行事が全国的に展開されました。そして日本のあらゆる組織が戦時体制に組み込まれました。中等学校も例外でなく、学業の傍ら農村や工場へ勤労奉仕に動員させられました。昭和18年から19年3月までの新聞から勤労奉仕の記事を列挙しますと(新聞名 日付)、
春休みを献納して 桑名高女仲よし部隊 平田紡績へ勤労奉仕(伊勢 03.25)
桑名高女 春休み返上 生産増強、食糧増産、遺家族援護(朝日 03.28)
桑名市立高女 農耕作業に心身を練成 矢田と八間通の空地で(朝日 04.28)
県立桑名高女 農業勤労奉仕隊を結成 古浜村、伊曽島村へ(朝日 06.15)
桑名高女 芝浦製作所工場・諸戸タオル工場へ勤労奉仕(朝日 07.28)
県立・市立高女、桑名中の勤労奉仕(伊勢 08.03)
生産増強へ 3万3千人 炎暑と闘ふ青少年学徒報告隊 桑名中学校など(朝日08.04)
汗に濡れて荷役奉仕 桑中報国隊員ら真摯敢闘(伊勢 08.19)
進んで1ヶ月を勤労奉仕 桑中8君こそ決戦下の学徒(朝日 09.02)
桑名中学 授業時間を1時間早めて全校生徒が草刈(朝日 09.08)
援農部隊 桑名中 員弁郡へ(伊勢 11.06)
桑名市立高女 矢田の農地に麥を蒔く(朝日 11.13)
桑名高女生も奉仕 東洋ベアリング○○工場で(朝日 01.30)
注 軍事秘密のため工場名は○○としている
農地改良に学徒隊繰出す 桑名中学 神田・多度両村、員弁町へ(朝日 02.17)
学徒延3万人が応援に出勤 暗渠排水工事 桑名中学50名(朝日 03.10)
そして昭和19年4月、通年動員となり、生徒たちは学校へ行かずに、工場へ出勤することになります。

 


 桑高創立百週年記念誌『桑高百年』の編集が修了し、刊行の運びとなりました。この「桑高百周年シリーズ」も今回をもって修了とします。次の企画は現在検討中です。

 なお、桑高創立百週年記念誌『桑高百年』は桑高卒業生だけでなく、どなたにでも、頒布します。ご希望の方は下記へ8000円(消費税・郵送料込み)お振込下さい。
   振込み先 ゆうちょ銀行 振替口座 00890-4-87537
   加入者名 桑名高校同窓会
   振込み金額 8000円
   お問合せ先 西羽 晃(にしは あきら)
   電話 0594-21-0980
   Email nishiha123@beige.plala.or.jp


 

シリーズ35/南部一郎校長先生 

 私は、昭和24(1949)年に桑名市立明正中学校に入学し、同27年に卒業しました。その間の校長は南部一郎先生でした。小柄な体格で非常に勤勉実直な感じの先生でした。南部先生が何故明正中学校長になったのかは、今回『桑高百年―三重県立桑名高等学校創立百周年記念誌―』を編さんする過程で知ることができました。
 南部先生は明治33(1900)年1月3日、員弁郡神田村瀬古泉(現東員町瀬古泉)の生まれで、神田小学校を卒業して、三重県立富田中学校へ進学しました。当時は北勢線も三岐本線も開通しておらず、瀬古泉から丘陵を越えて、大鐘村・平津村を通り、富田まで片道2時間をかけて通学しました。高学年になってから自転車通学となりました。
 富田中学を卒業後は広島高等師範学校文科へ進学し、大正13(1924)に卒業して、修身教育と英語中等教員の免許を取得し、発足して2年目の桑名中学校へ赴任しました。その後は桑名中学校の基礎固め、発展に努力しました。
 昭和12年に桑名市が発足しますが、当時の貝塚栄之助・桑名市長と懇意にしていました。桑名市では桑名市立実科高等女学校が昭和13年に創設されますが、校長は市長の兼務でした。昭和18年に桑名市立実科高等女学校が桑名市立高等女学校(以下市女と略称)に改変され、専任の校長が必要となり、貝塚市長の懇請で南部先生が市女の初代校長に就任しました。そして市女の最後まで校長を勤めた市女唯一の校長です。
 生徒の工場動員、昭和20年7月には戦災により校舎の焼失と、激動の時期を乗り切って、戦後は独立校舎の計画が立てられました。しかし教育制度改革により、新制中学校が発足し、旧制の中等学校は解体されてしまいました。そして旧制中等学校の優秀な先生は新制中学校へ転勤させられました。昭和23年旧制中等学校解体とともに、南部先生は新制の桑名市立第二中学校(のち明正中学校と改称)の校長に就任しました。そして新制中学校の草創期に力を尽され、昭和28年に退職されました。その後は地元の子ども達に英語を教えたりられ、昭和とともに、この世を去られました。
 明正中学校の地は近鉄益生駅・北勢線馬道駅に至近の場所で、通学に便利な土地として、戦後に三重県立桑名高等女学校を建てるべく、用地を買収し、埋め立てられた場所です。ところが旧制中等学校解体のため、出来上がったばかりの校舎も明正中学校に譲られた経緯があります。私が入学した当時は運動場も石ころだらけで、石拾いが行事の一つでした。

 

シリーズ34/下河茂嗣(しもかわ しげつぐ)校長先生(3) 

 下河先生は戦中・戦後の激務で、身体を蝕まれ、員弁高校長となった1952年12月に名古屋大学病院に入院。翌年の53年5月に亡くなられました。享年54歳の若さです。
 下河先生の3男の津一君と私は益世小学校・明正中学校・桑名高校と同級生です。53年は桑高2年生で同じクラスだったのですが、お父さんが亡くなられたことを知らぬままでした。今回、『桑高百年―三重県立桑名高等学校100周年記念誌―』編さんの過程で知りました。
 戦後の下河先生の活躍の一つとして、私立桑名民生学園の創設があります。1945年8月、日本は戦争に負けました。戦時中は英語は敵性語として排除されていましたが、戦後は英語が重要になることを見通し、桑名で民間の英語教育を行うべく、下河先生は奔走されました。そして桑名の実業家・佐藤信之助氏(後のサンジルシ醸造社長)の支援を得て、照源寺を借りて、桑名英学塾を立ち上げました。これが桑名民生学園となり、さらに現在の海星高等学校(四日市市)に発展しました。もっとも公立学校長である下河先生は表に立たず、この学園を裏で支えました。
 下河先生は戦前から英語教育に関する著作を多く書いておられますが、戦後になると『三位一体初級綜合英語の研究』(1949年)、『英語基礎研究』(50年)、『短期完成英語基礎練習1・2』(51年)、『英文法とその問題集(入試英文法演習)』(52年)、『高校生の英作文』(52年)などなど、多忙な公務の中にもかかわらず、精力的に著わされています。地方の高校の校長ですが、全国レベルの活躍をされました。
下河先生は豊かな趣味の持ち主であった。もっとも好まれたのは囲碁であり、幅広い碁友との交際があり、また文学・音楽・講談・落語をたしなみ、交友関係を豊かに持たれ、多くの人々から親しまれました。没後に友人たちが『偲ぶ草―下河茂嗣追想録―』を東京の出版社「泰文堂」から出して、先生の遺徳を偲んでいます。
 戦中・戦後の無理がなかったら、もっと長生きされ、桑名のため、日本のために活躍されたことだろうと悔やまれます。

 

シリーズ33/下河茂嗣(しもかわ しげつぐ)校長先生(2)

 1945(昭和20)年7月17日未明、桑名はアメリカ軍の焼夷弾攻撃を受けました。桑名中学校にも焼夷弾が雨あられの如くに降ってきました。校長である下河茂嗣先生は責任者として学校へ駆けつけ、奉安殿(桑高シリーズ30で書きました)から御真影・教育勅語を出さねばなりません。校舎が焼ける中で、下河先生は全身に大火傷を負いました。
 その後の8月15日、終戦の詔勅が天皇の肉声でラジオ放送(玉音放送)されましたが、下河先生は包帯姿で床に伏して、数人の先生方と共に玉音放送を聞きました。その時の下河先生の心情は如何ばかりだったが、計り難いですが、ともかく校舎を復興して、中学校の授業を再開することが急務でした。
 県の手続きを待っていると、時間がかかり過ぎますので、下河先生は独断で校舎再建のために、火傷が癒えぬままに動きました。まず員弁郡平古にあった旧海軍航空隊仮兵舎の払下げを受けて、解体・移築してバラック校舎を建てました。同年10月1日に新校舎は竣工しましたが、これは県下で最初の復興校舎でした。2部授業(午前と午後に分散した授業)でしたが、やっと授業を受けることが出来ました。ついで桑名市内坂ノ下にあった旧高射砲隊兵舎も解体・移築して、翌46年4月から2部授業を解消して正常な授業を開始できました。
さらに本格的な校舎建築のために尽力。戦後の処置として、学校所有の武器引渡し、軍事教育の撤廃、奉安殿の撤去、武道の中止、修身・国史・地理の授業停止など、占領軍から次々と命令され、その対応に追われました。
 戦後の大きな改革として、学制改革があります。とくに旧制の中等学校・高等学校は解体され、新制の中学校・高等学校に変わりました。桑名市内にあった三重県立桑名高等女学校・桑名市立高等女学校・三重県立桑名中学校は廃止となり、この3校が統合して、新制の三重県桑名高等学校が誕生しました。
 旧制の中等学校長は主として、新制中学校へ移ることになり、下河先生も1948年に新制の四日市北部中学校長となり、新制中学校の基礎固めに尽力されました。このころは制度も運営方針も次々と変わり、50年には新制の河原田高等学校長となり、51年に三重県神戸高等学校長となり、52年に員弁高等学校長と1年おきに転勤しました。

 

シリーズ32/下河茂嗣(しもかわ しげつぐ)校長先生(1)

 下河茂嗣先生は旧制桑名中学校の最後の校長先生です。
 下河先生は1899(明治32)年に福井藩の士族として、福井市に生まれ、1916(大正5)年福井中学校を卒業。1922年東京高等師範学校(現筑波大学)文科第3部を卒業して、福井県大野中学校の英語教諭となりました。その後金沢第一中学校、東京府立第二中学校教諭となり、1936(昭和11)年に三重県立津中学校教頭となりました。満41歳の1940年に三重県立木本中学校長になっています。そして太平洋戦争末期の1943年に桑名中学校長となり、戦災・廃校という未曾有の激動を乗り越えられた先生です。
 戦時中の中学校は軍事優先で、何もかも軍隊の命令に縛られていました。下河先生は英語の先生であり、府立第二中学校時代は英米人の英語教師を自宅へ招き、交友しているリベラリストでした。その英米と日本が戦争を始めたのですから、戦時中は非常に苦悩されたと思われます。
 戦時中の二つのエピソードがあります。一つは軍隊からの各中学校長へ「入隊志願者名」を提出を求められました。下河先生は最初の数回は「適任者なし」と回答していましたが、
 軍隊の司令部から出頭を求められ、提出しない校長は「非国民だ。辞職せよ」と強く批難され、仕方なく「志願者名」を提出せざるを得ませんでした。軍隊へ行くことになった生徒には同級生たちが寄せ書き署名した日章旗が渡されましたが、三重県立桑名中学校長下河茂嗣も大きく署名しています。1943年、海軍飛行予科練習生に合格した川瀬作三郎君に渡された日章旗は遺族から桑名高校に寄贈され、現在桑名高校に保管されています。
 もう一つは学徒勤労動員にまつわる話です。このことは桑高シリーズ28で、すでに書きましたが、当時の中等学生は学校へ行かずに、工場へ行って働きました。遠方の工場へ行くために親元を離れて、寄宿舎に入る場合もありました。桑名中学でも名古屋の工場への動員を示されましたが、下河先生が「桑名に軍需工場があるのだから、桑名に勤めさせて欲しい」と要求したので、桑名中学生は親元から通勤できました。
 追記 桑高シリーズ15で書きました「小河内芳子さん」は去る3月3日に101歳の天寿を全うされ、旅立たれました。桑名・照源寺の小河内家墓地に葬られました。生涯独身で、身寄りは姪1人。あとの方は桑名空襲で家族全部が亡くなられています。

 

シリーズ31/鷲野義俊校長先生

私が桑高に入学した1952(昭和27)年から卒業までの校長は鷲野義俊先生でした。彼は1951年から61年まで10年間も桑高校長を勤め、歴代で最も長い期間の校長です。

  彼は1903(明治36)年2月1日に岐阜県の伊東家で生まれました。19(大正10)年広島高等師範学校に入学し、25に同校を卒業し、修身教育国語漢文科の免許を取得。同年呉市立中学校に就職し、28(昭和3)年に大阪府立高津中学校に転勤。ここで後の作家・織田作之助を教えて織田に文学志向への影響を与えたといわれる。そのころ伊東姓から鷲野姓に変えている。

  その後奈良県立桜井高等女学校へ移り、40年に四日市(市立)高等女学校へ移り、43年四日市市立富洲原実科高等女学校長となる。同校の校歌を作詞している。45年に同校は四日市市立北高等女学校と改称。46年には私立暁幼稚園長も兼務。また私立暁女子専門学校(現四日市大学)の設立に協力。47年三重立桑名高等女学校の最後の校長となる。48年同校が廃止となり、一時三重県教育委員会課長となり、49年鈴鹿高校長・50年白子高校長を歴任し、51年桑名高校長となる。桑高在職中に三重県高等学校野球連盟会長も勤める。55年四日市高校が甲子園の野球大会で全国優勝した時の会長であり、このころが彼の人生で最も充実した頃であろう。59年に伊勢湾台風に見舞われ、その後の復旧に尽力され、新校舎落成式の直前の61年に同校を退職、野球連盟会長も辞任。一時名古屋の私立桜花学園女子高校に勤務しました。

  彼は四日市市の中心部に住んでいて、公害病と謂われる四日市ゼンソク(気管支ゼンソク)に罹り、65年6月公害患者として認定されました。67年10月5日 塩浜病院にて64歳にて死去。死因は公害病とは関係ないが、ゼンソク治療のための副じん皮質ホルモンを投与したのが影響したともいわれる。

  私は桑高在学中に鷲野校長に可愛がってもらい、いつも温和な笑顔に接していた。後で知ったが、大変な酒豪であったとか。
            合掌

 

シリーズ30/戦後の県立桑名高等女学校

1945年7月17日に桑名は大空襲を受け、桑名市内にあった県立桑名高女・桑名市立高女・県立桑名中学も焼けてしまった。8月15日に日本は降伏し、戦争は終り、学校の授業は再開されたが、校舎がないので、各地へ転々と移動しての授業となった。中でも県立桑名高女は目まぐるしく移動している。

まず4年生(当時の高等女学校は4年制でした)は東方の専明寺、3年生は川越村豊田の最覚寺、1,2年生は神田村(現東員町)国民学校と川越村国民学校(当時は小学校は国民学校と呼ばれた)。

  46年2月に神田校から在良村国民学校へ移動。4月から高等女学校は5年制となる。
4月6日、入学式を在良校で。8日、始業式を旧校庭(吉之丸)で。9日から川越村高松の光輪寺・善養寺、同村福崎の法雲寺・集会所。生徒たちは畳に座り、自分で持ってきた座り机で勉強した。

  同年4月29日天長節(昭和天皇の誕生日)拝賀式は、5年生が専明寺、1,3,4年生は川越校、2年生は在良校。このころから新しい校地が考えられ、益生駅近くが予定された。校舎は香良洲にあった軍隊の建物を払い下げることになった。校舎復興資金集めも行われた。生徒たちも演芸班を組織して公演して、資金募集を行った。同年12月20日、新校舎建設の工事入札が行われ、竹中工務店が落札した。47年2月15日に新校舎起工式が行われた。

  その間にも度々の移動があり、朝日の東芝女子寄宿舎や朝日村縄生の真光寺および集会所、西別所の辻内鋳物工場が使われた。

  新校舎建設の目途が立った47年4月14日、山本威雄校長が急死した。建設にともなう様々な心労がたたったのだろう。新しく鷲野義俊校長が赴任した。
 
  新校舎の一部が出来るとともに、まず5年生が9月から新校舎へ移った。12月に3,4年生、48年2月2日に2年生が新校舎に移り、これで全校生徒が一同に集まった(47年度から義務制の新制中学校が出来て、全員が新制中学校へ進学し、旧制の高等女学校や中学校への進学がなくなり、当時は1年生はいなかった)。

  48年4月30日、新校舎の工事は完了した。しかし、旧制の高等女学校や中学校は廃止となり、在校生は新制高等学校や新制中学校へ転校することになった。桑名では旧制の県立桑名高女・桑名市立高女・県立桑名中学が廃止され、新制の桑名高校が出来た。5月8日、県は5月13日までに転校を完了するように通達を出した。わずか5日間しか余裕がない、慌しさである。12日お別れ式を行い、演芸会を催して、県立桑名高女は廃校となった。折角出来た新校舎は桑名市立明正中学校の校舎として使用されることになった。

 

シリーズ29/奉安殿(ほうあんでん)

今では奉安殿を知っている人は少ないでしょうが、太平洋戦争の敗戦以前の日本人(或いは朝鮮・韓国人、台湾人、満州人も)なら大概の人にはお馴染みの建物であり、嫌な想い出も多いことでしょう。

  奉安殿とは『広辞苑』によれば、「御真影・教育勅語謄本などを奉安するために学校の敷地内に1920年代後半から30年代にかけて普及」とあります。御真影とは天皇・皇后両陛下の写真であり、教育勅語とは「明治天皇の名で国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した勅語。1890年(明治23)10月30日発布。御真影とともに天皇制教育推進の主柱となり、国の祝祭日に朗読が義務づけられた」(『広辞苑』)。

  御真影・教育勅語を保管するために、小学校から大学まで、どんな学校にも必ず奉安庫または奉安殿がありました。最初は校長室に置かれた丈夫な金庫が奉安庫として使われましたが、昭和の始めころから、校庭に耐震・耐火構造の鉄筋コンコリートの頑丈な奉安殿が建てられました。生徒たちは毎朝登校すると、まず奉安殿の前で最敬礼をしなければなりませんでした。最敬礼を怠ると、先生から叱責され、体罰を受けることもありました。

  県立桑名高女では生徒父兄・同窓生・教職員から寄付を募り、工費1200円で、昭和6年2月26日に奉安殿が建設されました。県立桑名中学校では創立10周年記念として、生徒父兄・同窓生・教職員から寄付を募り、工費1000円で、昭和8年1月20日に奉安殿の竣工式をしています。その建物の周囲を取り巻く玉垣のため、同年2月に呉海軍鎮守府へ不要になった砲弾と碇の鎖を下付されるように申請しています。そして12センチメートル廃弾(長さ約1尺3寸)6個と古鉄鎖(16分の13インチ)100尺を貰い受けています。

  昭和20年7月17日の桑名大空襲によって県立桑名高女も桑名中学校も全焼しましたが、奉安殿は焼け残りました。その後も県立桑名高女では御真影と教育勅語を大事に持ち歩きましたが、21年2月13日に国へ返納されました。そして同年9月6日から奉安殿の取り壊しが始められました。

  殆んどの学校の奉安庫・奉安殿は破却されましたが、員弁郡十社小学校の奉安庫はいなべ市の郷土資料館である桐林館(旧阿下喜小学校の建物)に保存されています。また桑部小学校の奉安殿は東金井の神社の本殿として移築され、今も使われています。その他にもいなべ市内の神社にも旧小学校の奉安殿の建物が移築されています。

 

シリーズ28/桑名商業実務学校

江戸時代の桑名は木曽三川や伊勢湾、東海道を通じて商業の活発な町でした。その動きは明治時代になっても続き、珠算塾が盛んでした。しかし、公立の商業学校は出来ず、珠算塾から発展して商業学校に成長したのが、私立桑名商業実務学校でした。

前身の私立桑名簿記学校は大正14年(1925)3月15日に開校。珠算科は1カ年、簿記科は3カ月、タイプライター科は4カ月の修業期間で、同年度の教員数は2人、生徒数は男48人、女23人でした。校主は鈴木参治でした。

大正14年に私立桑名商業実務学校と改称し、大字桑名416番地90坪を桑名土地建物株式会社から借用して、2階建て校舎1棟と平屋建て校舎1棟を新築しました。分類上は各種学校で、裁縫塾などと同じでした。しかし、規模は大きく、昭和3(1928)年度には学級数7、教員数6人、生徒数 男152人、女26人になっています。

その後、昭和8年に平屋建て校舎を2階建てに改築しています。一時生徒数は減少しましたが、昭和16年に学則を変更して、本科は国民学校(当時は小学校が改称されていた)高等科2年を卒業した生徒を受け入れて、2年間の修業年限としました。その上に1年間の専攻科がありました。また青年学校令に基づく認可を得ました。昭和16年度の生徒数は本科1年生55人、2年生35人、専攻科65人です。運動場は隣の桑名市立第二国民学校の運動場を借りています。また桑名市から45円の補助金を得ています。

  昭和18年には中等学校令に基づく商業学校に昇格しています。同年には在校生の中から陸軍少年飛行兵学校へ3人、陸軍少年戦車兵学校へ3人が進んでいます。滑空(グライダー)訓練もしています。

  昭和18年12月に財団法人となり、同時に男子の募集を取りやめて、女子ばかりとなっていますが、昭和19年には一般の中等学校と同じく、学徒動員で工場へ働きに出ています。昭和20年7月の桑名空襲で建物は焼失し、その後は復旧されなかったようです。

 

シリーズ27/桑名中学の学徒動員での出来事

日本が太平洋戦争に突入し、日本中が狂気の沙汰に陥ったことは前にも書きましたが、その一つに学徒動員があります。中学生や女学生たちもペンを捨てて工場でハンマーを握りました。最初は限られた期間だったのが、1944(昭和19)年には通年動員となり、毎日学校へ通学せずに、工場へ通勤する有様でした。遠方の工場の場合は親元を離れて、寮に入っての生活になりました。桑名中学の場合は当時の下河校長が強く希望を出して、桑名の工場勤務となりました。

  桑名中学4年生は東洋ベアリング(現NTN)、山本鋳造(今のアピタのところ)、日立製作所(現日立金属)へ通勤しました。慣れぬ労働に疲れ果てながらも、異性とも接する機会があり、心がときめくこともありました。

  44年11月3日、当時は明治節(明治天皇の誕生日)と言われる祝日のため、工場へ行かずに学校での式典に久しぶりに全校生徒が集まりました。山本鋳造組は休日にならず、式典が終了しだいに工場へ出勤するように言われていましたが、東洋ベアリング組や日立製作所組は休日なので工場へ行かなくてよいとの話が伝わました。この話を聞いた山本組一同は工場へ行かずにサボタージュをしてしまった。翌日には呼び出されて、体罰を受けました。

  45年の早春、級友が海軍兵学校へ合格しました。第五国民学校(現益世小学校)の同級生だった者たちが、相川町の肉屋・柿安の2階で壮行会を開きました。食料不足の時代でしたが、酒屋の息子が父から提供された1升の酒を持ってきて、皆で飲みました。最後は第五国民学校の校庭で大声をあげて軍歌を歌いました。後日、桑名中学の校長室に呼び出されました。退学処分を受けるかとハラハラしながら出頭すると、下河校長から尋問を受け、「時局は重大だ。お国のために一生懸命やりなさい」と謹慎処分で済みました。下河校長は英語の先生で東京で教師をしている頃には外人教師が家に遊びに来ており、非常にリベラルな人でした。彼にとっては「お国のために」戦争に協力させられ、心ならずも教え子たちを戦場へ送らねばならぬ、無念の時代だったろう。

 

シリーズ26/県立桑名高女の永田加寿(かず)先生

昭和16年12月8日、日本は太平洋戦争に突入しました。戦争遂行のために、当時の日本では狂気の沙汰としか思えないような状況が次々と行われました。その一つに学生が卒業を繰り上げさせられました。専門学校の生徒も、この月に卒業となりました。東京音楽学校の生徒だった永田加寿は卒業させられ、同月末に三重県立桑名高等女学校の音楽教師として赴任しました。戦雲の垂れ込める学園でしたが、新任ほやほやの若い先生は、一輪の花を添える明るい存在でした。「お姉さん」先生として女学生たちにも人気の的になりました。顔も体もふっくらとしていて、忽ち「あんぱん」とあだ名を付けられました。柔らかなソプラノとピアノの音が学窓に響きわたりました。しかしながら、戦争が烈しくなるとともに、勉強よりも生産が優先され、女学生は学校へ行かず、工場へ通勤する有様となり、音楽の授業も無くなりました。

  彼女は永田保羅・かよの長女として、大正8年に生まれました。保羅は聖公会(キリスト教の一派で、イギリスの国教)の牧師で、この頃は四日市の教会にいました。しかし、桑名の教会の牧師も兼ていて、しばしば桑名でも説教をしました。

  日本がアメリカと対立するようになった時、永田保羅牧師は「日本人とアメリカ人とが戦争する理由がない」と発言し、反戦思想の持ち主としての烙印を押されました。そして特高(思想取締をする特別な高等警察)から24時間中、監視されるようになりました。

  昭和20年6月16日、四日市が爆撃され、教会も焼けました。焼け出された永田一家は桑名の教会に移りましたが、ここも7月17日に空襲で焼けてしまい、市内の西方に間借りしました。

  桑名の北寺町で医院を開いていた水谷健二家も焼け出されて、永田家の近くの家を借りて住むようになりました。この水谷家は7月24日の爆弾攻撃の際に防空壕が吹き飛ばされ、息子さんは生き埋めになるところを、足だけが出ていたので、助けられました。しかし母親は重傷を受けて、1カ月余に亡くなられました。

  近所同士の永田家と水谷家は仲良くなり、戦争も終った、その年の暮れのクリスマスを両家が楽しく開きました。そして、夫人を亡くした水谷健二と永田加寿とが昭和22年3月15日に結婚しました。その年の5月31日付で、彼女は女学校を退職しました。しかし、その後も嘱託として勤務しました。女学校が廃止となって、新制の桑名高校が出来た際も、桑名高校で暫らくは音楽を教えました。先妻の子どもを育て、妻として、主婦として、家業の医院の助手をしながら、教師も勤め、さらには名古屋でのオペラ公演にも出演するという多彩な活動をしました。

 

シリーズ25/桑名中学校と諸戸家

初代諸戸清六は1代で財産を築いた富豪ですが、彼の2男精太が古い屋敷を継承し、西諸戸と通称されました。また4男の清吾が2代目清六を継ぎ、隣接地に西洋館を含む新居(現在の六華苑)を建て、東諸戸と称されました。諸戸家では地域貢献や人材育成に力を入れています。

  桑名中学校は最初は県立でなく、桑名町立として創立されましたが、その創立資金10万円のうち、諸戸精太が3万円を出しています。また2代目清六は大正7年に10万円を醵出して、諸戸育英会を組織して、高等教育を受ける人に奨学金を支給していますが、大山田村在住者に限って中学生にも例外的に支給をすることにしています。そのころは未だ桑名中学校がなかった時代ですが、同12年に桑名中学校が出来ると同15年に規約を改正して、桑名町居住者にも支給することにしました。 
 
  大正14年に大山田村東方(現在の桑名高校の位置)に桑名中学校の校舎が完成しましたが、2代目清六は施設の充実などに支援をしています。昭和2年にテニスコートを寄贈、同3年に図書館の書籍数千冊の寄贈。さらに野球のバッテングゲージの寄贈、慶応大学から水原選手と土井捕手を野球のコーチとして呼んだりしています。

  2代目清六は昭和2年頃に桑名中学校の南隣に別宅の徳成邸を建てました。一説によると、彼の息子の民和が、この年に桑名中学校に入学したので、通学に便利なように徳成邸を建てたとも言われます。精太の息子の精文も同年に桑名中学校に入っており、同じ徳成邸から通学したようです。民和の弟である鉄男も桑名中学校へ通いました。

  この徳成邸は2代目清六夫人が晩年の昭和61年まで住んでおられました。今は主人不在の空き家になっていますが、夫人が住んでいたままの状態で残されています。先日見学させてもらいましたが、タイムスリップしたような、昭和の生活感が溢れている建物です。

  このままの状態では、いずれ取り壊される恐れがあります。樹木の繁茂する庭園も含めて、「水と緑と歴史が育む 豊かな快適交流文化都市」をスローガンとする桑名市の品格を象徴する環境を備えている場所と思います。
薄れ行く「昭和の記憶」を後世まで保存できるようにと私は念願しています。

 

シリーズ24/B29墜落と桑名中学生

太平洋戦争末期、サイパン・グアム、沖縄と、日本はアメリカの攻勢で追い詰められ、アメリカの爆撃機B29が日本本土の上空を我がもの顔に飛びました。しかし日本の防衛網では、これを打ち落とすことが殆んど出来ませんでした。しかし偶々打ち落すこともありました。昭和20年6月22日の各務ヶ原攻撃の際にB29の1機はエンジンを破壊されて、桑名郡長島村(当時=以下同じ))に墜落しました。乗務員11人はパラシュートで脱出、1人は長良川中に落ちて溺死しました。もう1人は河芸郡上野村で遺体が発見されました。無事に地上に降りた乗務員は弥富村で3人、鍋田村で2人、永和村で2人、長島村で2人の9人でした。

  機体が落ちた様子を当時の新聞では「二十二日午前三重県桑名郡長島村に撃墜された、三条の白煙をひき不時着姿勢で墜落―巨翼は北勢特有の湿田に一旦は原型のまゝ突込みながら数秒後には三千ガロン以上を搭載してゐたと思はれる自身の主翼内燃料槽の大爆発で木ッ端微塵になつて飛散、約二町四方に渉る湿田用水路一帯に金属層となって沈んでしまった(下略)」(昭和20年6月23日付『中部日本新聞(現中日新聞)』)。

  機体が落ちた現場は国道一号線東であり、落下傘で降りてきた場所は国道一号線と現在の長島中央道の交差点東側付近でした。アメリカ兵は「憲兵につれて行ってください」と書いた札を胸に下げていました。村人たちは竹ヤリや農具でアメリカ兵を小突きました。

  あるホームペイジに、降りてきた乗務員は即日木曽川原で斬首処刑されたと書いてありますが、それは愛知県側での話と思います。三重県では長島村の2人は桑名警察署に連行され、玄関前で警防団長に殴られた現場を多くの人が目撃しています。警察署では取り調べるために通訳が必要でしたが、警察署の近くに住んでいた桑名中学生を呼んで来て、通訳させました。戦時中でも桑名中学では英語の授業はありましたが、一般には英語は敵性語として排除されていました。通訳をした中学生は母親がロンドンで暮らしたことがあり、彼の家庭では英会話も話していたようです。なお連行されてきたアメリカ兵は、その後にどうなったかは定かではありません。

  B29が墜落して1人が死亡した現場には、敗戦後まもなくアメリカ軍によって慰霊塔が建てられ、長島小学校の6年生が慰霊祭に参加しました。また昭和21年11月、長良川の堤防に、長島村出身の某氏によって木製の十字架が建てられました。新聞も「米空軍勇士の霊よ安かれ」と書いています(昭和21年11月15日付『伊勢新聞』)。

 

シリーズ23/桑名市立高等女学校

桑名町立裁縫女学校・桑名実業女学校のことは当シリーズ5で書きましたが、その後は昭和10年に桑名町立の商工学校・青年訓練所・実業女学校が統合されて桑名町立青年学校となりました。うち実業女学校は青年学校女子部となりました。昭和12年に桑名町は西桑名町と合併して桑名市となったため、桑名町立青年学校は桑名市立青年学校と改称されました。女子部は昭和13年には独立して、桑名市立実科高等女学校となりました。

  実科高等女学校本科の入学資格は高等小学校を卒業したもので、修業年限は2年でした。その上に補習科がありました。定員は本科200人(1学年100人)、補習科50人でした。1年生の志望者は76人、2年生の志望者は60人で定員割れで、全員が入学しました。しかし年を追う毎に志望者は増えて昭和17年の志望者は191人と2倍近くになっています。授業料は8月など全月休業の場合は無料、さらに出征兵士の家庭や戦病死した遺族の家庭は免除されました。

  実科高等女学校になって、代数・幾何・教育・公民の科目が増えました。第1回生は修学旅行に四日市港からリオデジャネイロ丸に乗船して、東京・日光・鎌倉などを回りました。昭和13年に制服が変わり、セーラー服となりカラーに白線2本、スカートに黒線を付けました。

  昭和18年には桑名市立高等女学校と改称され、定員も1学年150人となりましたが、志望者は264人に達しています。昭和19年には国民学校初等科(尋常小学校)終了者を入学資格とする第1部(定員200人・修業年限4年)と国民学校高等科(高等小学校)終了者を入学資格とする第2部(定員200人・修業年限2年)となりました。高等女学校となると、教養科目も増えて、外国語・地理・歴史など幅広くなりました。

  定員増やその他の市立学校の増設を考えて、桑名市では昭和17年に矢田に約1万坪の用地を確保していましたが、戦争が激化してきて、校舎を建てる余裕もなくなりました。その用地に戦後は桑名市役所が建てられ、現在に至っています。

  高等女学校になったものの、戦争のため充分な授業も出来ず、工場へ勤労動員され、昭和20年には校舎も戦災で焼失してしまいました。その後は第5国民学校(現益世小学校)に間借りしたり、東洋ベアリング青年学校を仮校舎にしながら、新しい校舎の建設を目指しました。しかし、昭和23年の学制改革で旧制中学校・高等女学校はすべて廃止となり、新制高校が誕生して、桑名市立高等女学校は桑名高等学校に統合されました。

 

シリーズ22/川橋善作と真珠湾攻撃

昭和11年(1936)、桑名中学4年生の川橋善作は海軍兵学校を受験しました。身体検査合格者に対して、英語、数学、物理、漢文の学科試験が3日間行われました。三重県から約800人が受験しましたが、合格は2人だけ。彼も難関を突破できませんでした。

彼は長島の農家で、学費のかからない師範学校か、陸軍士官学校か、海軍兵学校を目指しました。翌年も海軍兵学校を受験しましたが、またも駄目でした。しかし、その年に新しく設けられた海軍甲種飛行予科練習生に受験して、見事に合格しました。三重県では50人のうち5人が合格しました。津中学2人、宇治山田中学2人と桑名中学の彼でした。

昭和13年3月に桑名中学を卒業して、すぐに横須賀海軍航空隊に入隊して、日夜飛行の猛訓練を受けました。月々火水木金々と土日(休日)のない訓練でした。ハワイ真珠湾の模型による爆撃訓練もありました。

昭和16年11月19日呉軍港を出発、ヒトカップ(単冠)湾に集結し、12月3日真珠湾北方洋上に達し、12月8日(現地では7日)早朝、真珠湾を総攻撃。

この攻撃に参加した川橋は『創立九十周年記念誌』(三重県立桑名高等学校 平成10年発行)に次のように書いています。

「やがて雲が切れて、雲間に白い波が海岸で砕けるのが見えた。オアフ島だ。高度を四千、四千五百、五千米まで上げる。金曜日に入港した筈の戦艦アリゾナと同型艦も見える。二番機(九七式艦攻)の私は、ダイヤモンド岬を目標に高度三千米から三百米まで下げ、カルフォニア型戦艦を目がけて魚雷投下二発。水深十二米の海面下九米を魚雷が走る。魚雷よりも航空機の方が勿論早いので、発射した魚雷は後方に見える。敵艦甲板で水兵が歯ブラシを使っているのが見える。反撃はない。やがて百三十米位の水柱が上がる。あちこちで水柱が上がる。攻撃成功。(中略)真珠湾攻撃が終了して十二月二十四日帰国、」

翌年5月に母校の桑名中学で後輩たちに体験談を話しました。その後のミッドウェイでの海戦で辛うじて一命を取止め、戦後の彼は桑名で社会人として活躍しました。

 

シリーズ21/桑名中学校・桑名高校の校歌

桑名中学校の校歌

木曽揖斐の流のほとり
尾野山の岡の上高く
聳え立つ我等が母校


作詞 宮地 雄吉
作曲 早川弥左衛門
制定 昭和7年

桑名高校の校歌

揖斐木曽川に抱かれて(中略)
ここ尾野山の丘の上(中略)
母校よ桑名高等学校


作詞 窪田 空穂
作曲 信時 潔
制定 昭和26年

両校の校歌を並べてみますと、同じような言葉が並んでいます。偶然なのでしょうか。

他に言うべき言葉がないのでしょうか。高名な歌人・窪田空穂が盗作まがいに作ったとは思いたくありませんけど、平凡な詩だと思います。彼は現地を知らずに作詞したと思われます。もっとも私にとっては在校中から幾度も歌っており、卒業以来50年余経った今でも暗記している愛唱歌です。

桑名中学校の校歌を作詞したのは2代目校長である宮地雄吉(桑高百年シリーズ13参照)で、文人校長でした。作曲した早川弥左衛門は中央交響楽団の指揮者でした。

窪田空穂は文化功労者であり、歌人であり、国文学者であり、早稲田大学の教授でもありました。桑高2代目校長の伊達貫一郎が大学時代の恩師である窪田空穂に依頼したといわれています。作曲した信時潔は各地の校歌や社歌・団体歌を1000以上も作曲していますが、最も有名な作曲は、「海ゆかば」です。これは昭和12年にNHKの依頼で作られた曲で、国民歌謡として親しまれました。太平洋戦時中の県立桑名高女では卒業式の歌として歌われました。また戦時中は戦死者を悼む曲として使われましたので、戦意を鼓舞する曲として、戦後は嫌われました。なお信時自筆の桑高校歌楽譜が現存しています。

桑高校歌は平日の午後5時に桑高校庭で流されています。

 

シリーズ20/桑名中学校の修学旅行

大正15年(1926)、初めての修学旅行が実施され、4年生が大津・比叡山・京都・奈良へ4日間出かけています。翌年も同じコースでしたが、昭和3年(1928)には鎌倉・江ノ島・東京方面へ変わっています。6年には大阪・香川・広島に行きましたが、7年には再び関東地方になりました。この年は初日の5月19日夜に桑名を出て、翌日午前6時半に箱根強羅に着ました。箱根・鎌倉を見学の後、東京で宿泊。3日目、4日目は東京見学。5日目、日光を見学して伊香保にて宿泊。6日目は長野善光寺を拝観し、浅間温泉にて休憩の後に夜行列車で、5月25日朝7時20分、桑名駅へ無事帰着しました。

昭和7年までは東京での自由行動が組み込まれていましたが、8年になると、団体行動が増えて、東京では靖国神社・乃木邸に行くようになりました。9年になると、遊覧地の箱根は取りやめとなり、その代わりに横須賀へ行き、軍港ならびに戦艦三笠を見学するコースとなりました。他に放送局の見学が加わっています。

昭和11年は内地と満鮮との2組に分かれました。どちらも4月23日の出発ですが、内地組は京都(桃山御陵)、厳島神社、香椎神宮、箱崎神宮、大宰府、熊本、阿蘇山、別府と回り、5月1日に帰着しました。天皇に関係する所、蒙古襲来や西南の役に関する戦場などを見て回っています。

一方満鮮旅行は下関から関釜連絡線に乗り、釜山へ渡り、鉄道で京城(現ソウル)へ。南大門・朝鮮神宮・昌慶苑(博物館など)・朝鮮総督府など見学。次いで奉天(現瀋陽)・新京(現長春)・旅順で二百三高地など日露戦跡・大連のアカシヤ並木などを見学して、5月4日に帰着しました。殆どの生徒は初めての外地であり、見聞を広く深めました。その後14年まで満鮮旅行は実施されましたが、戦時体制のため15年から修学旅行そのものが中止となりました。なお満鮮旅行は県下では四日市商業学校が昭和13,14年に実施していますが、普通中学校では桑中だけが実施した大旅行です。

 

シリーズ19/県立桑名高女の修学旅行

学校在学中の最大の楽しみは修学旅行と言う人も多いかと思いますが、県立桑名高等女学校で修学旅行が何年から始まったのは不詳です。大正12年(1923)に修学旅行が行われた新聞記事が見られますから、それ以前からあったかと思います。

昭和6年(1931)の記録が残っていますので紹介します。この学年は2年生の時の高野山・吉野・奈良方面の旅行が、大変な不況のため参加者が少なくて中止になった学年であり、修学旅行は大いに期待されました。関東方面に行くについては片道は汽船を予定しましたが、適当な船がなくて、鉄道利用となりました。

第1日目、午後8時33分桑名駅発の臨時列車で出発。第2日目、未だ明けやらぬ空に富士山の姿が見えてきた。当時は丹那トンネルが出来ていないので、御殿場線まわりで午前4時41分国府津駅着。小田原を経て箱根へ。箱根遊覧の後、江ノ島にて宿泊。第3日目、鎌倉見学して横浜から八王子へ。多摩御陵参拝して信濃町の日本青年館で宿泊。

第4日目、東京見物。明治神宮・乃木大将旧宅・泉岳寺・愛宕山の放送局・浅草・靖国神社とバスにて回る。第5日目、午前中自由行動、銀座の三越へ買物に行った人もいた。午後は上野から日光へ。金谷ホテルの前の小西屋にて宿泊。第6日目、日光・中禅寺湖・華厳の滝見学し、夜行列車に。第7日目、午前5時2分長野駅着。善光寺参詣。午前6時25分長野駅発、午後5時8分桑名駅着。

6泊(うち2泊は車中)7日の大旅行です。交通機関がまだ不十分なのに、かなりの強行軍です。現在でも観光地であるところもありますが、多摩御陵・乃木大将旧宅・泉岳寺・愛宕山の放送局などは当時の世相を反映しています。

この年度には有志のみで富士山登山(7月26~29日)があり、その予行演習として藤原岳登山(6月14日)もありました。全体の遠足としては11月7日に1・2年生は多度神社、3・4年生は員弁耶馬渓へ行っています。員弁耶馬渓とは何処にあるのかご存知の方、教えて欲しい。2月9~10日の4年生は卒業旅行に伊勢神宮参拝に行き、二見で宿泊しています。

戦時体制が強まる中、昭和18年に政府の方針で修学旅行は全面的に中止となりました。

 

シリーズ18/桑名高校の硬式野球部

戦時中は野球部も消滅していましたが、戦後すぐに復活し1946年(昭和21)から大会も再開されました。そして旧制中学校が新制高校と変わった48年からは全国高校野球選手権大会となりました。桑名中学・桑名高校も毎年参加しています。49年夏は準決勝戦で山田高に3-0で敗れましたが、同年秋には県大会で山田高を3-2で雪辱して優勝しました。翌50年春にも県大会で優勝。しかし同年夏は準決勝戦で敗退。同年秋は再び県大会で優勝しました。51年夏も準決勝戦で敗退しました。このように49年から51年にかけては、桑高野球部の黄金時代でした。その中心は水谷勝吉・横山功・水越敏行・酒井敏明らでした。水谷は社会人野球で活躍し、横山・酒井は早稲田大学へ進み、神宮の森で活躍しました。酒井は更にプロ野球の中日ドラゴンズへ入団しました。後には中日スポーツ新聞の記者となり、2007年に死亡するまで野球との縁を続けました。水越は大阪大学教授となっており、文武両道に優れていました。

その後も桑高硬式野球部は夏の大会で準決勝戦までしか進んでいません。即ち55年に四日市高に11-6、90年に明野高に8-3、2002年に海星高に9-2で負けて、決勝戦への壁を打ち破ることが出来ていません。その中で特筆すべきは55年の大会です。この年は四日市高が好投手の高橋選手を擁して、甲子園に初陣で優勝した快記録を残しました。桑高は高橋投手から6点を得ましたが、失策や四球が多くて敗退しました。この6点は高橋投手が甲子園で優勝するまでに相手チームに与えた得点の中では最も多い得点です。即ち桑高が高橋投手に対して最も高得点を得ており、全国で2位の実力と言えます。桑高の浅井選手は5打数4安打と高橋投手を打ち崩しています。

2002年春には県下で桑高は優勝し、東海大会に出て、1回戦で中京大中京高に負けました。夏には優勝候補として前評判は高かったのですが、準決勝戦で敗退しました。この時に主将を務めていたのが川畑衣啓選手です。彼は早稲田大学に進学し、野球部の一軍選手として活躍しました。今春に大学を卒業する予定です。

いずれの日か、桑高は甲子園に出る日が来るのを楽しみにしているのですが。

 

シリーズ17/桑名中学の硬式野球部

夏の甲子園、全国高校野球選手権大会は、現在も国民的行事として盛大に行われています。新制高校が出来る前の旧制中学校甲子園で全国大会が行われて、夏の日本を湧かせていました。桑名中学は大正12年(1923 )に開校しましたが、4年生まで揃った大正15年に野球部が創設されました。5年生まで揃った昭和2年(1927)に始めて夏の大会に出場しました。『朝日新聞』の大会前記では「初陣とても必ずしも勝てないことはないといふ非常な勇気と決心の下に出陣し力戦奮闘を続けて見せるとナインの面上には緊張の色があふれてをる」(昭和2年7月21日付)と紹介されています。だが、7月25日に四日市商業と対戦して、11A対0でコールドゲームで敗退しました。

5年には1回戦に上野中学と対戦し5-4で始めての勝利を得ました。しかし2回戦で、この年の三重県優勝校である宇治山田商業に12-0で敗退しました。翌年には1回戦で津中学と対戦、金森の本塁打などで一時は同点としましたが、延長11回に失策が絡んで敗退しました。 その後は毎年1回戦で敗退を続けましたが、12年には1回戦に宇治山田中学を2-0、2回戦で励精商業を5-0と、伊藤鉄也、伊藤卓也両投手の好投で相手に得点を与えませんでした。次いで準決勝で三重師範と対戦、7回まで4-0とリードしましたが、8回に伊藤(鉄)投手が2死後に連続四球を出し、失策・野選とミスが重なり、逆転され、結局5-4で破れました。それでも準決勝戦まで進んだのは戦前ではこの年が唯一です。この年は夏の大会以外でも9勝2敗1引分けと健闘しています。

13年は2回戦まで進みましたが、宇治山田商業に11-4で敗退。16年からの記録は不明ですが、戦時中は大会は中止されています。昭和2年から15年までに夏の大会に17試合出場し、勝利したのは僅かに4勝という残念な結果でした。

(前月に紹介しました小出靖彦さんは平成20年11月29日に老衰で逝去されました。享年96歳)

 

シリーズ16/桑名中学の水泳選手たち―近藤勇三・小出義彦・中山重正―

桑高百周年シリーズ12(かわら版2008年8月号)で私は下記のように書きました。

スポーツ面では水泳の活躍が目立ちます。桑名にはプールがありませんので、多度の仮設プールで練習し、昭和5年の東海選手権大会では近藤勇三君が自由形400米と1500米で優勝し、小出靖彦君は平泳100米と200米で優勝しています。小出君は翌年には全日本選手権大会で平泳100米と200米で4位に入賞しています。彼は東大に進み、昭和35年(1960)のローマ・オリンピックでは日本水泳競技の総監督として参加しています。

その後の調べで小出「靖彦」君でなく、小出「義彦」君の誤りでした。一字違いですが、人名ですから重大な誤りです。誠に申し訳けない次第です。

何故間違えたのか。先ず『朝日新聞』の記述が間違っていました。『朝日新聞』(昭和6年9月17日付)では「三重県水泳連盟では全日本選手権兼本年度神宮競泳大会の県代表選手を詮考中だつたが、十五日桑名中学小出靖彦君を正式に公認推薦した、同君は若武者ながら百㍍平泳一分十九秒八、二百㍍平泳二分五十七秒二の記録を持つ、海の国三重県の誇るべき選手である」。実際は「靖彦」でなく「義彦」が正しいのです。日本を代表する大新聞も活字印刷のころは、かなり誤植がありますが、これは完全な誤りです。

第2に『桑名市史』では「桑中の水泳選手桑名内堀出身の小出靖彦(東大卒)は桑中時代八百自由形の全日本ベスト・テンの三位を記録し、八高時代には連続三年全国インターハイに優勝した。戦後は日本水泳連盟の常務理事を勤め、昭和三十三年七月専務理事に選出された」とある。この記述は小出靖彦のことには間違いがないのですが、かれは桑中でなく富田中学(現・四日市高校)の出身です。

私はいずれの記述も考証せずに孫引きしてしまいましたが、『桑名市史』の誤りは何百か所あるか見当がつかないのです。このように今回も新しく発見しました。桑名市民としては誠に恥ずかしい『桑名市史』です。

日本水泳連盟では機関誌『水泳』昭和5年の創刊号からネットで公開しています。家庭のパソコンからでも簡単に閲覧・複写できます。それと同連盟発行の『水連四十年史』(昭和44年刊)によりまとめてみますと。

昭和5年8月明治神宮プールで行われた全日本水泳大会で近藤勇三(桑名中)は1500㍍自由形予選B組で4位になっています。おそらく決勝戦にのぞんだと思われますが、決勝は4位までには入らなかったようです。

小出義彦は昭和6年10月明治神宮プールで行われた全日本水泳大会では100㍍平泳決勝で4位になっています。200メートル平泳でも決勝で4位です。計時員は3位のタイムでしたが、審判員はタイムが 0.2秒遅い人を3位と認めたため、小出は4位とされました。手でストップウオッチを押す計時員と着順を目視する審判員とは別人なので、食い違いが生じたようです。

昭和7年の全国高校選手権で小出義彦(八高)は200メートル平泳で7位になっています。八高(第八高等学校=現・名古屋大学)に進学したのですから、勉学も優秀だったのでしょう。その後のことはわかりませんが、彼の墓は桑名・伝馬町の顕本寺にあります。お寺の話では昭和19年4月12日、インド・アッサム州で戦死されています。墓石の戒名も「護国院義烈日住居士」とあり、将来を嘱望されながら、惜しい命を落とされました。

小出家は勝彦・靖彦・義彦の兄弟がおり、桑名内堀に住んでいました。元は桑名藩の武士で、早くから桑名松平家に仕えました。靖彦は富田中学生として、昭和4年全日本中等学校水泳大会で800㍍自由形で2位になっています。のち東大を出て、安田海上火災保険に勤務していますが、昭和33年から36年に日本水泳連盟の専務理事を勤め、その間の昭和35年のローマ・オリンッピクに日本水泳選手団の団長として参加しています。

昭和10年西部中等学校大会で、桑名中学の中山重正君は100㍍自由形で優勝しています。200メートル自由形では準決勝で3位に入りましたが、決勝戦の成績は不明です。

当時の桑名に正式のプールはありませんでした。多度の仮設プールと揖斐川の仮設プールで練習しながら、中学生ながら桑名から全国レベルの水泳選手が輩出しました。

 

シリーズ15/小河内芳子(こごうちよしこ)さん

小河内芳子さんは明治41(1908)年3月16日桑名町で生まれました。今年で満100歳を迎えられました。大正13年(1924)年三重県立桑名高等女学校を卒業しました。入学した時は桑名郡立高等女学校だったのですが、途中で県立となったので、県立としては第2回目の卒業になります。東京へ出て、図書館学を学び、長らく東京市(東京都)の図書館に勤められ、児童図書の普及に努められました。勤務の傍ら、児童図書の普及のため、著作を著わされたり、各地へ講演へ赴かれました。児童図書研究会や各種の研究会・評議会の役員もされました。90歳ころまでは現役として活躍され、故郷の桑名でもたびたび話をされており、私も何度かお会いしました。100歳を越えられた現在は、病院で栄養分を補給されながら、闘病生活を送っておられるそうです。

小河内家は桑名藩の重役でした。最初は宝永6(1709)年、医師として仕え、200石10人扶持を貰いました。その後も200石前後の禄高を貰って、小姓や用人を勤めています。幕末には桑名・内堀に屋敷がありました。

明治維新以後も現在まで小河内家は同じ内堀に住んでおられます。芳子さんの父・小河内弥兵衛さんは大正9~13年、昭和3(1928)~4年に桑名町助役を勤められた方で、桑名の行政に尽されるとともに、桑名の発展にも大きな力を発揮されました。

芳子さんの兄である小河内泰三さんは昭和の戦時中に大阪で住んでおられましたが、昭和19年に家族は故郷の桑名・内堀の家に戻っていました。昭和20年7月17日に桑名は空襲を受けましたが、小河内家は無事でした。しかし心配した泰三さんが桑名に戻っていた7月24日に再び桑名空襲を受けました。その時に泰三さん夫妻と娘さん3人が近くの貝塚さんの屋敷(現貝塚公園)に逃げ込みました。落ちてきた爆弾のため、泰三さんと娘さん2人が爆死されました。その様子は生き残られた末娘の(安島)尚子さんが『桑名の空襲』(くわな空襲を語りつぐ会編)で書いておられます。

1世紀を生き抜かれた芳子さんが快復され、再びお話が聞けるように念願しています。

 

シリーズ14/若松實と朝鮮通信使

若松實は1912(明治45)年大垣市で生れました。幼少のころ桑名へ移り、1929(昭和04)年桑名中学を第2回生として卒業しました。その後は天理外国語学校(現天理大学)朝鮮語科に進学。1939年京城帝国大学(現ソウル大学)法文学部朝鮮語科を卒業しました。翌年から名古屋市役所に勤務しました。1967年、55歳で定年となり、名古屋市役所を退職。同年桑名市から愛知県甚目寺町に転居しています。

その後は得意な朝鮮語(ハングル文字)を駆使して、朝鮮の庶民を紹介する書物の翻訳や朝鮮に関する著作を著しています。

  • 著書
    • 『対訳詳解韓国ことわざ選』(1975年)
    • 『韓国の吉凶禍福』(81年)
  • 編訳
    • 『韓国のなぞなぞ 楽しく学ぶ韓国語 対訳注解』(1977年)
    • 『韓国の古時調 対訳注解』(79年)
    • 『韓国の冠婚葬祭』(82年)
    • 『韓国古調風流譚』(83年)
    • 『対照訳注 韓・日ことわざ事典』(85年)
    • 『韓国風流小ばなし』(85年)
    • 『韓国文手紙の書き方』(87年)

 これらの著作をする中で、1982年、運命的な出会いがあります。名古屋八事・興正寺で朝鮮通信使の絵巻が発見された新聞記事を見た若松實が触発されて、自分が持っている朝鮮通信使の紀行文の翻訳を思い立ちました。その本は韓国の古書店で買い求めていた本です。それを彼は日本語に訳しました。そして1988年から99年にかけて、名古屋の日朝協会愛知県連合会によって出版されました。朝鮮通信使関係が17冊、その他が5冊です。その後の朝鮮通信使の研究に大いに役立ち、日韓交流の基礎資料となって、現在も広く利用されています。

彼は1994(平成06)年、不幸にして、交通事故で亡くなられました。

2008年、ご遺族から朝鮮通信使関係の翻訳本は桑名市立中央図書館に寄贈されました。また一部は桑高創立100周年記念に桑名高校図書館に寄贈されました。

(おわび 三重県立桑名中学校(2)で桑名中学の水泳選手・小出晴彦のことを書きましたが、小出義彦の間違いでした。義彦は戦死しているようで、1960年のローマ・オリンピックの水泳総監督になったのが小出晴彦でした。晴彦も桑名の出身のですが、富田中学校の卒業です。晴彦と義彦との関係については、目下調査中です。改めて書きます。)

 

シリーズ13/宮地雄吉と高橋俊人

昭和6年(1931)県立桑名中学校の2代目に校長に就任したのは、三重師範学校主席教諭であった宮地雄吉(1889-1985)である。彼は文化人であり、俳号を蛙子と称し句集『春潮』を出し、また歌集『航跡』を出している。桑中に赴任して2年目に校歌を作詞して、「尾野山の岡の上高く、聳え立つ我等が母校」と詠んでいる。8年には県視学官となったが、11年に県立富田中学校(現四日市高校)校長となり、ここでも校歌を作詞している。13年には県立宇治山田中学校(現宇治山田高校)校長となった。さらに14年には神戸市立神戸中学校(現神戸市立葺合高校)の初代校長となった。ここでも校歌を作詞している。25年に神戸で若草幼稚園を創設して、経営した。

昭和7年、桑名中学に赴任してきたのは高橋俊人(1898-1976)であった。彼は宮地に誘われて、浦和から移ってきた。9年に『歌集 寒食』を出版している。

桑名にて
旅づかれしるき妻子とあかときを桑名の驛におりたちにけり
古ぼけし單線電車はしりゐてわびしく長し桑名の町は
揖斐川をたどりて海へゆきし眼に知多の岬の日に光(て)れる見ゆ 
   旭ビルディング
三階ゆ見下す町のわびしさや家の絶えまに蓮田つづけり
   赤須賀風景
冴えかへる日曜の午後を暇あり海を見んとて赤須賀に来つ

当時の桑名風景を偲ばせる情景が眼に浮かぶようである。彼は10年に県立津高等女学校(現津高校)へ転任し、12年から18年まで県立富田中学校で教鞭を執っている。その間の北勢地方での歌道の指導に当たった。退職後は生まれ故郷の藤沢に戻り、歌道の指導に努めている。

 

シリーズ12/三重県立桑名中学校 2

桑高百周年シリーズ9で述べましたが、三重県立桑名中学校では昭和3年(1928)第1回生の69名が卒業しました。うち進学したのは約半数の30名でした。進学先は私立大学予科3、官立高校2、官立専門学校4名、官立実業専門学校7、高等師範2名などです。三重県下の先輩校である、津・富田・上野・宇治山田中学には及びませんが、新設校としてはまずまずの成績です。2年7月には西別所の水谷清六氏が基金15,000円を醵出し、「財団法人三重県立桑名中学校水谷育英会」を設立し、上級学校へ進学した桑中卒業生に奨学金を与えています。同様な育英会として「諸戸育英会」(諸戸清六氏設立)もありました。

学校の設備も徐々に整備され、昭和2年10月には諸戸清六氏の寄贈によりテニスコートが完成しました。4年6月には「御大典記念図書館」が伊藤紀兵衛氏の寄付で建設されました。「御大典」とは昭和天皇の即位式です。図書館には諸戸清六氏から千数百冊の図書が寄贈されました。

昭和4年から始まる世界恐慌で、中等学校志願者も激減し、5年度はどこの中等学校でも定員に満たない有様でした。桑中も定員150名に対して145名しか志願者がなかったのですが、入学を許可されたのは120名で、厳しい選考がなされたようです。翌6年には定員が90名に減らされています。志願者は101名でした。

スポーツ面では水泳の活躍が目立ちます。桑名にはプールがありませんので、多度の仮設プールで練習し、昭和5年の東海選手権大会では近藤勇三君が自由形400米と1500米で優勝し、小出靖彦君は平泳100米と200米で優勝しています。小出君は翌年には全日本選手権大会で平泳100米と200米で4位に入賞しています。彼は東大に進み、昭和35年(1960)のローマ・オリンピックでは日本水泳競技の総監督として参加しています。

 

シリーズ11/郡立から県立の高等女学校へ

明治43年(1910)に創立された桑名郡立高等女学校は志望者が多く、施設の充実が望まれて、郡立でなく県立への移管運動が大正5年(1916)ころから始められました。しかし県としても経費がかかるので、移管に消極的でした。大正7年の志願者数は2倍を超えて104人に達しています。そのため大正8年から補習科を廃して、本科定員を1学年100人としましたので、入試難は緩和されました。しかし授業料は値上げされ、郡内生は1円50銭、郡外生は2円になりました。そのころは第一次世界大戦が終わり、戦後不況に見舞われ、物価も急騰しましたので、大正9年には授業料が再び値上げされ、郡内生は2円、郡外生は2円50銭となりました。

県立への移管は一時頓挫していましたが、郡制度そのものが廃止になることとなり、郡立は県立に移管されることになりました。県立にするためには施設の充実が求められ、大正10年4月から校地拡張工事が始まり、9月15日には増築校舎の上棟式も行われました。その直後の9月26日、暴風雨のため、建設中の校舎が倒壊するパプニングに見舞われました。しかし工事は急ピッチで進められ、大正11年3月26日に2階建校舎が落成しました。そして同年4月1日から県立となり、三重県立桑名高等女学校と改称されました。同時に授業料も2円均一となりました。12年には講堂も完成しました。この年から制服が変わりました。それまでは着物姿で、袴の裾に白線が1本入っていましたが、セーラー服となり、スカートの裾に白線が1本入っていました。

志願者はますます増えつづけ、大正13年には223人もあり、定員の2倍以上にもなりました。そのため大正15年から1学年3クラス(定員150人)となりました。しかし昭和に入ると、世界恐慌に見舞われ、進学希望者が激減しました。昭和5年(1930)には志願者は147人で定員割れの状態でした。翌6年の志願者は159人で辛うじて定員を超えた程度でした。その後はまた増加しています。

施設の充実も図られ、昭和3年には校舎が増築され、翌年には旧校舎の一部を取り壊し、その跡地に昭和天皇御大典記念として図書館が完成しました。これは職員や同窓生、生徒の寄金で作る予定が、桑名の富豪伊藤紀兵衛氏だけの寄付で建ちました。昭和5年には鉄筋コンコクリート造りの立派な奉安庫が出来ました。これは職員や生徒などの寄付によります。奉安庫とは教育勅語や天皇皇后陛下の御真影(写真)を納めておく場所で、何よりも大事な場所でしたから、昭和20年の空襲で全設備が焼失した時も焼け残りました。

 

シリーズ10/商工学校と青年訓練所

桑名高校とは結びつかないのですが、小学校を終えた男子のために、桑名町立の商工学校と青年訓練所が大正15年(1925)に出来ました。両方とも桑名町立第三尋常高等小学校(現立教小学校)に併設されました。

  商工学校 青年訓練所
目的 商業工業に関する知識技能を授けると共に国民生活に須要なる教育を為すを以て目的とす 青年訓練所令に依り青年の心身を鍛錬して国民たるの資質を向上せしむるを以て目的とす
修業年限 前期2年(尋常科卒業者)
後期2年(高等科卒業又は前期終了者)
研究科(後期卒業者)
4年(16歳以上17歳未満)
教科 修身・国語・数学・英語・商業・工業 修身・公民・教練・歴史・地理・国語・数学・理科・商業・工業
授業時間 19時から21時(夏期)
18時から20時(冬期)
月曜と木曜の19時から22時
授業料

1か月50銭
但し学校都合により全月休業または、病気で全月欠席した場合は無料

無料

小学校を終えて、中等学校へ進学しない男子は夜間の商工学校へ行きます。これは通年制です。16歳になると青年訓練所へ行きます。これは週2回の夜間です。それを終えると20歳になり、徴兵検査を経て軍隊に入隊することになります。

商工学校では英語も教えていますが、研究科になって初めて会話・作文を教えています。

青年訓練所では公民・歴史・地理・理科が加わっていますが、特に力を入れているのは教練です。表には書きませんでしたが、年間授業総時間数200時間のうち100時間が教練ですから、軍隊生活に役立つことを教えたのでしょう。授業料も無料です。

桑名町以外の農村部では農業を主にした実業補習学校もありました。多くは農閑期を利用した学校です。

 

シリーズ9/三重県立桑名中学校

大正12年(1923)4月、(桑名町立)三重県桑名中学校が開校しましたが、とりあえず仮校舎での出発でした。入学者は100名で、親の職業は公務自由業が22名、商業が22名、農業が21名、工業が15名などとなっています。

尾野山(現桑名高校の場所)丘陵地の斜面の高い方を崩して、低い方を埋め立てて、新らしい校地が造成されました。大正12年5月1日に地鎮祭が行われました。14年4月には運動場と一部の校舎が完成し、仮校舎から移転をしました。付近は畑であり、その中に忽然として近代的な洋風の建物が生まれ、元気のよい男の子たちが通うようになりました。15年4月から県立に移管され、三重県立桑名中学校となりました。定員も1学年150名となりました。そのころに入学した人の話しでは埋め立てばかりの運動場は山土なので、靴に泥がついて困った。雨が降ると石ころが出てきて、毎日のように石拾いの作業があったので、「石取り学校」などと称したそうです。

大正15年5月、予定された校舎などが完成し、昭和2年(1927)4月には5年生までの全校生が揃いました。大正15年に結成されていた硬式野球部は昭和2年の7月、初めて大会に出場しましたが、1回戦で四日市商業に11-0で惨敗しました。ちなみに夏の大会での初勝利は、5年7月26日の1回戦で上野中学に5-4で辛勝しました。同月29日の2回戦では宇治山田商業に12-0で大敗です。

昭和3年3月3日に第1回卒業式が挙行されました。入学者は100名だったのに卒業者は69名でした。うち4名が5年間無欠席で表彰されました。

 

シリーズ8/宮部桑陰と市橋ふで子

桑名のお寺で墓地を見ておりましたら、明治初期に桑名にいた2人の教育者の墓がありました。2人とも桑名高校に直接な関係はありませんが、世間では知られていない方なので紹介します。

1つは顕本寺にあります「桑陰宮部先生之墓」です。桑陰先生は本名は宮部勝三郎で桑陰は号です。桑名藩士として文政7年(1824)桑名で生まれました。三男です。次兄の名前は不明ですが、幕末に江戸で勤務しており、その時の日記が最近発見されました。私的な日記で、公的には現れない桑名藩江戸邸や江戸の町の記録として非常に興味ある資料であり、今夏には活字で出版されるそうです。

桑陰先生は桑名藩の学校である立教館の教員を幕末に勤めています。藩が廃止になってからは員弁郡大仲新田(現桑名市)に隠棲しますが、後に教育にあたっています。文武に優れ、酒をよく飲み、朗らかに喋るので、子弟たちは引き込まれて、話を聞きました。明治26年(1893)1月8日、享年70歳で亡くなりました。

もう1つは本統寺にあります「市橋ふで子先生墓」です。墓碑銘から計算すると、天保4年(1833)生まれのようです。桑名の武家には市橋姓はありませんから、桑名の町家の生まれかと思います。桑名町大字清水町の自宅で、女子のために裁縫練習場を開き、教育に努められました。明治36年(1903)1月5日、享年71歳で亡くなりました。その死を悼み、教え子の女性4人が発起人となり、墓を本統寺に建てました。ふで子先生のことは、この墓に書かれている以外にわかりませんが、教え子たちが立派な墓を建てるほどですから、素晴らしい教育者であったに違いありません。宮部桑陰先生・市橋ふで子先生について、ご存じの方がありましたら、ご教示願います(電話:0594-21-0980)。

 

シリーズ7/三重県桑名中学校

前回に書きましたが、明治32年(1899)に三重県立中学校が増えて県下で4校となりましたが、次第に中学進学希望者は増加しました。大正7年(1918)ころの入学率(入学希望者に対する定員の割合)は、三重県は全国で最下位となっていました。そのため桑名、鈴鹿(亀山)、河芸(神戸または白子)、飯南(松阪)、多気(相可)、北牟婁(尾鷲)、南牟婁(木本)が誘致合戦を展開しました。その結果、神戸と木本に中学校、松阪に商業学校が県立で設置されることになり、大正9年に開校しました。

県立校の誘致に失敗した桑名町と尾鷲町では、町立で中学校を設置することになり、桑名町では大正10年から設立準備を始めました。必要経費20万円のうち、諸戸清六が3万円を支出するなど、一般からの寄付も集まりました。校地は桑名町域の面積が狭いので、隣接する大山田村東方(現在の桑名高校の場所)の丘陵1万坪を大山田村が3万円で購入して寄付しました。

大正12年2月15日付の『官報』に「三重県桑名中学校ヲ同県桑名郡大山田村ニ設置シ大正十二年四月ヨリ開校ノ件認可セリ」と告示されました。生徒募集が行われ、定員100名に対して528名の志願者という5倍以上の高い競争率でした。校地はまだ整備中ですし、とりあえず桑名町立第三尋常高等小学校(現桑名市立立教小学校)を仮校舎として、4月5日に第1回入学式を行いました。

(桑名中学校は三重県立でなく桑名町立として発足しましたので、一般には桑名町立桑名中学校と呼ばれますが、正式校名は『官報』にあるように「三重県桑名中学校」です)

 

シリーズ6/三重県立第二中学校の創立

三重県で男子が通う中学校は明治十三年(一八八〇)に津で創立されました。その後、県下で北勢・伊賀・南勢に一校づつの増設が図られました。三校設置は明治二十八年の三重県会に提案されました。伊賀は上野、南勢は宇治山田が問題なく決まりましたが、北勢は桑名町と四日市町とが誘致合戦を繰り広げました。桑名町は江戸時代の城下町から続く伝統ある町でしたし、四日市は明治になって港を中心として発展してきた新興の町でした。明治二十七年末の桑名町の人口は一八四五九人、四日市町の人口は一八六九二人とほぼ同じであり、経済力も競っていました。

県では四日市と桑名の中間をとって、大矢知に決めました。幕末の大矢知は忍藩の飛び地で、陣屋があり、藩の学校もあって、学問をするにふさわしい場所と考えられました。しかし、東海道とは離れており、通学するには不便であって、反対も多くありました。

最終的には富田に決まりました。現在の四日市高校の場所です。富田は東海道筋であり、すでに関西鉄道((現在のJR関西線)の富田駅があって桑名・四日市双方からの交通が便利な場所でした。

現在の富田は四日市市ですが、当時は富田村であり、江戸時代は桑名藩領であって、当時の桑名の人の意識としては富田は桑名の一部と考えていましたから、桑名に中学校が出来たと考えました。四日市の人は距離的に近いから納得しました。玉虫色の解決といえましょう。かくて明治三十二年に三重県立第二中学校が富田で開校し、後に三重県立富田中学校と改称しました。

 

シリーズ5/桑名町立裁縫女学校と桑名実業女学校

前号に書きましたが、桑名郡には高等女学校が明治43年(1910)に設立されましたが、家事とか裁縫などの家庭実務を重視した女子教育が求められ、大正4年(1915)に城南村立裁縫学校と赤須賀村立裁縫学校が設立され、同6年に深谷村立裁縫学校が設立されています。同9年6月7日に、桑名郡長を校長とする私立桑名家政学校が照源寺を仮校舎として開校しています。これらの学校はいずれも補習学校と呼ばれる学校で、農閑期を利用した季節的な学校だったようで、実態は不詳です。
大正10年4月に、桑名町立裁縫女学校が開校しています。これは通年制の女学校で、裁縫・家事に重点を置きながら、修身・国語・算数などの一般教養科目も教えたようです。当時の新聞では「本年四月から開始された桑名町立裁縫女学校は同町第三小学校に併置されてあるが、現在の通学者は四十余名に達して、尚希望者が非常に多いが、校舎の関係から全部収容する事が出来ない好況にある」(大正10年12月20日付『大阪朝日新聞』)。修業年限は2年間だったようで、同12年3月に14人が卒業しています。
大正13年4月29日に桑名町立裁縫女学校は廃止となり、同日(桑名町立)桑名実業女学校が開校しています。実質的には両校は継続した学校と思われますが、体操・音楽などが加わり、より充実した教育がなされました。両校とも小人数であることにより、きめ細やかな指導、親密な師弟・友人関係が形成されたのが、大きな特色です。
桑名実業女学校はその後の変遷を経て、桑名市立高等女学校となり、昭和23年(1948)桑名高等学校に統合されます。
この桑名町立裁縫女学校および桑名実業女学校に関する資料が殆どありません。ご存知の方はぜひとも筆者(電話0594-21-0980)へお願します。

 

シリーズ4/桑名郡立高等女学校

明治42年(1909)1月29日、桑名町外九ヵ村学校組合会議で桑名郡立の高等女学校設立の建議がなされ、43年1月の桑名郡議会において設置が決議されました。同年3月29日付で文部大臣からの認可を得ました。翌4月5日に入学式を行いました。    
修業年限は本科4年、補習科1年でした。1学年と2学年の入学志願者を募集し、1学年は58人、2学年は53人の志願者があり、全員が入学を許可されました。内訳は桑名郡85人、員弁郡17人、三重郡4人、鈴鹿郡3人、他府県2人でした。
場所は内堀にある桑名第二高等小学校の旧校舎を借用しました。高等小学校は桑名郡に二つありましたが、各村の小学校に高等科が付設されて、第二高等小学校は必要でなくなったので、その空き校舎の転用です。寄宿舎も高等小学校からの転用です。当時の桑名地方では国鉄関西線以外の鉄道はありませんでしたから、寄宿舎が必要だったのです。 
三重県下の高等女学校は明治34年に津の県立(現津高校)と四日市市立(現四日市高校)が最初で、三番目が桑名郡立高等女学校でした。

明治44年には授業料を桑名郡内は1円、郡外は1.5円としています。大正2年3月(1913)に初めての卒業生本科34人が巣立ちました。入学者より19人少なくなっています。同年4月には補習科が始まり、12人が進学しましたが、1年後の卒業は9人で、3人の退学者が出ています。

 

シリーズ3/「駒木根りう」と桑名女子手芸学校

駒木根りうは桑名外堀の出身で、慶応3年(1867)1月19日の生まれです。明治12年(1879)に立教学校(現立教小学校)下等小学全科を卒業し、同校裁縫科を経て、結婚しました。しかし夫と死別しましたので、26年に東京の私立共立女子職業学校(現共立女子大学)を卒業し、29年には仙台の私立裁縫松操学校高等科(現仙台大学)を卒業しました。男子でも遊学が珍しいころに、はるばると東京、仙台と遊学した彼女の向学心には驚かされます。
卒業後に母校の立教小学校の教員となりましたが、その後に退職して、明治39年彼女は私立桑名女子手芸学校を設立しました。同年3月10日付の『伊勢新聞』に生徒募集の広告を出しています。それによりますと本科生40人(高等小学校卒業または同等以上の資格ある者)を募集し、来る4月5日より授業を開始するとあります。
前々号で書きましたように、明治36年に桑名義塾が休校となりましたが、その建物(内堀)を利用しての開校です。入学者は30人ほどでした。41年の統計では、修業年限2年、教員男5人女8人、生徒68人です。42年ころから桑名郡立高等女学校設立の動きがあり、桑名郡役所では桑名女子手芸学校への補助金を削減しています。そして43年4月に桑名郡立高等女学校が開校したため、桑名女子手芸学校は同年末を以って廃校となり、彼女は44年に尾鷲で北牟婁女子手芸学校を開き、大正11年県立尾鷲高等女学校(現尾鷲高校)開校と共に同校の教員となり、女子教育に昭和まで活躍しています。晩年には桑名に戻り、やはり裁縫塾を開いています。昭和20年9月17日に享年79歳で亡くなりました。お墓は顕本寺(桑名市萱町)にあります。

 

シリーズ2/五瀬教校と菫月一露

明治時代の桑名における中等教育機関に、ユニークな学校として五瀬教校があります。この学校は浄土真宗本願寺派の僧侶養成学校です。明治9年(1876)に桑名の光明寺や法盛寺を利用して始められました。のちに新町に移り、教室・講堂・寄宿舎などを設けました。生徒は岐阜県・愛知県からも来ていました。33年に三重仏教中学と改称しました。34年度末の生徒数は男子71人、女子は0でした。35年には彦根の金亀仏教中学に吸収されて、第三仏教中学(40年には彦根から京都に移り、翌年には平安中学校=現在の龍谷大学付属平安高校の前身=と改称)となり、桑名の三重仏教中学は廃校となりました。桑名の跡地には本願寺派の九華育児院が設けられ、現在は教宗寺が建っています。
詩人の菫月一露(きんげつ・いちろ)は明治19年3月25日に長島・願証寺に生まれました。33年に三重県立第二中学校(現四日市高校)へ入学しましたが、僧侶になるため34年9月に三重仏教中学に転入学しました。翌年には合併により彦根の第三仏教中学へ移りました。ボート部や野球部で活躍する傍ら、詩歌に親しみ、中央の雑誌に投稿し、新鋭の詩人として注目されました。第三仏教中学を卒業するに当り、38年3月25日に詩歌集『鬼百合』を出版しました。同年上京して早稲田大学高等予備科に、さらに国学院専修部国文科に入学しました。しかし病を得て、39年に帰郷、40年1月7日に満20歳にして夭折しました。

 

シリーズ1/励精義塾と桑名義塾

明治5年(1872)3月に桑名県(藩)が廃止となり、桑名藩の学校であった立教館も廃止されました。それに替わり同年に小学校相当の公立の立教学校(現在の立教小学校の前身)が開かれました。それとは別に私立の励精義塾(中等学校相当)が創立され、旧武士の子弟教育が続けられました。10年に西南の役が起きると、桑名の旧武士たちが参戦したので、義塾は休校となり、その後再開されたものの、経費困難となり、12年ころに解散となりました。
しかし、立教館の伝統を受け継ぐ学校として、明治15年7月に私立桑名義塾が設立されました。初年度は先生が5人、生徒は42人でした。学科は漢学が主でした。場所は最初は三之丸で、翌年に内堀へ移っています。桑名義塾では出版事業もしており、27年には『鎮国守国両神公御遺事』を出版しています。
桑名では公立中学校設立の動きが明治16年ころにありましたが実現せず、桑名義塾が中等学校相当の学校として存続しました。しかし県立の中学校が北勢、南勢、伊賀の増設されることになり、北勢では四日市と桑名とが誘致合戦をした結果、中間の富田に県立第二中学校(現四日市高校)が32年に出来ました。桑名と富田との間には関西鉄道(現JR関西線)が開通しており、桑名から富田へ通う生徒が多くて、36年に桑名義塾は休校となり、そのまま廃止となりました。